(No301)蒸気時代の新鶴見① [昭和時代1]
します。新鶴見で撮った写真のなかで今回は新鶴見操作場の方をご覧下さい。
新鶴見構内を人道橋から撮っています。左側は貨物のヤ-ド、右側が機関区ですね。
D51が長い貨物列車をハンプに向けて押し上げていきます。左隅に気になる電気機関車が見えます。
その電機はEH10のファ-ストナンバ-でした。
押上線からゆっくりとハンプに向っていく貨物列車。しかし長いですね
時速2㌔程度のゆっくりした速度なので機関車の煙が人道橋に覆いかぶさっていました。
3本ある線路のうち、押上線は両サイドの2本で真ん中の1本は機廻線です。
ここで係りの方が貨車を切り離し方向別仕分線へと貨車が下っていきます。
貨車が全て仕分線に送り込んで作業終了したD51が機廻線で戻ってきます。
すでに準備されていた貨物列車がもう一本の押上線を上って来ました。
日本では、すでにすべてのハンプヤードが閉鎖されていますね。
次回は新鶴見機関区を予定しています。
では これで。
(No297)水戸鉄道管理局無煙化記念列車 [昭和時代1]
に遭遇しました。幸いに時間が有ったので下車して見学しました。イベントは21日と22日の二日間お
こなわれました。
---1970年3月21日---
水戸機関区に足を延ばして行くと、さよならのヘッドマ-クをつけた8630が出番を待っていました。
この8630は現在梅小路蒸気機関車館に動態保存されていますね。
形式入りのナンバ-プレ-トのC12187。現在は茨城県久慈郡大子町「大子町立中央公民館」に保
存しているようです。
機関区から水戸駅に戻って記念列車を待つことにしました。
D51964と重連で入線してきました。予想を上回る人気で客車を増結で、重連運転となったそうです。
特別に作ったさよならSLと書かれた高萩~水戸間の行き先板がぶら下がっていました。
満員の乗客を乗せた9両の客車をつないで発車を待つさよなら列車。
そろそろ発車です。安全確認の為、乗務員が3人も乗っています。
大勢のファンが今かとカメラを構えて待っています。
8630+D51297重連の無縁化記念さよなら列車が出で行きました。
偶然に旅行の帰りにイベントが見られて何か得した気分だった様な気がします。
では これで。
(No292)奥羽本線旧陣場界隈スナップ② [昭和時代1]
保線員の架線工事の訓練用に線路と架線が有るようですね。
私が訪れた昭和45年(1970)8月駅前には何やら廃止の反対の看板がありました。
アップしてみました。どうやら駅無人化で貨物の取り扱い廃止の反対運動していたようですね。
そろそろ青森行きの下り列車が到着の時間になり改札が始まりました。
C61牽引の普通列車青森行きの到着です。
乗客は地元の方が数人、見送りに来た浴衣姿のお爺ちゃんが駅舎の雰囲気とマッチしているのが
いい感じです。
改札口上の額縁に入った看板がいいですね。丸時計は以前はきっと振り子付きの柱時計だった
かもと想像してしまいます。
子供をつれた家族で何処に行くのでしょうか。ロ-カルならでの情景です。
いよいよ発車です。オハフ61に青森行きの行き先板がぶら下がっていますね。
長い列車が徐々に加速していきます。駅員さんは客車1両毎に次の駅名を連呼しています。「次は
津軽湯の沢~」「次は津軽湯ノ沢~」と。
最後に車窓さんと挨拶そして列車が見えなくなるまで安全確認をしていた覚えが有ります。補機は
DF50が付いていました。
1899年(明治32年)開業して1970年(昭和45年)11月複線化に伴い現在位置に移設しましたが、
旧陣場駅は私が訪れたわずか3ヵ月後に廃駅となってしまいました。そして無人駅となりました。
これで旧陣場駅界隈のスナップはお仕舞いです。
では これで。
(No291)奥羽本線旧陣場界隈スナップ① [昭和時代1]
津軽湯ノ沢間は新線で矢立トンネルが出来て難所の矢立峠越えが無くなり、それに伴い新しい陣場駅
が出来、旧陣場駅が廃止となりました。その旧陣場駅界隈の写真をご覧下さい。
旧線の第二下内川橋梁付近の踏み切りから陣場駅を見てます。
その第二下内川橋梁を渡るD51貨物列車が来ました。
この貨物列車は後補機が2台付いていました。3台運転で陣場駅に到着です。
陣場駅近くにはすでに新線の工事を着工しています。今では新線が開通下お陰で難所だった矢立峠越
えが無くなりました。
陣場駅構内には先ほどの3台運転の長い貨物列車が止まっています。
峠越えをしてきた機関士が一時の休息をしています。
陣場駅構内には貯炭槽がありました。補機のD51が待機しています。
下りD51牽引の貨物列車が来ます。この貨物列車は陣場駅を通過しました。
この貨物列車も2台の後補機が付いて、これから矢立峠に向って行きました。
次回は陣場駅舎の画像を予定しています。
では これで。
(No289)学校帰りに撮った井の頭線と玉電 [昭和時代1]
越境入学していましので小田急線祖師谷大蔵から梅丘まで通学していました。時々親父のカメラを持ち
出しては学校に持っていき帰りに電車を撮っていました。前回は井の頭線でしたが今回は玉電(現世田谷
線)の写真をアップしました。なんせ学校帰で薄暗くなった時間帯露出が全てアンダ-でした。
小田急線豪徳寺をクロスする鉄橋付近で撮っています。
私が好きなお顔、馬ズラの40形。行き先板がまだ「渋谷」になっていますね
玉電時代ではお上品な80形 行き先板がパタパタ式で「渋谷」行き。
この辺りは現在とあまり変わっていない様な気がしますね。80形が玉電山下に到着です。
たった4カットしか撮っていません。当時中学生の私にはフイルムが高価でしたので少しずつしか撮らな
かった様です。フイルムは20枚撮りで井の頭線と玉電、そしてクラスメイトが写っていました。
風邪でこの四日間何処も出かけられずネタがなく昔のネガを探しては穴埋めをしている次第です。
では これで。
(No288)学校帰りに撮った井の頭線と玉電 [昭和時代1]
に井の頭線や玉電(現世田谷線)そして京王線など撮っていました。学校帰りの為にどうしても夕方に
なってしまうので写真が殆んどアンダ-となっていました。
カメラはビュ-ティという品物で結構綺麗に撮れました。レンジフアインダ-のF2.8、45mm、シヤッタ-
は1/300まで有りましたが露出計は有りませんでした。当時中学生の私にはまだカメラの基礎も知らない
で撮っていたので殆んどがブレとボケた写真ばっかりでした。
三面窓の1700系 東松原の渋谷よりの踏切がまだありますね。 東松原~代田二丁目(現・新代田)
これも三面窓の1200系 ヘッドライトが埋め込みですね。 この土手沿いには今は紫陽花が植わってい
ます。
湘南タイプ二面窓の1900系 東松原~代田二丁目(現・新代田)
青のFRP顔3000系が登場したのもこの年だったと思います。チヨットシャッタ-が早かった1800系が切
れてる。
駅が見えるのでアップしてみました。駅名が代田二丁目となっています。渡っている橋は欄干など見る
とまだ環七になっていない様ですね。
踏切に警報器がまだ付いていないですね。家が建て込んできたので今はこの踏み切りからしか撮れな
くなりました。代田二丁目~下北沢を走る1900系
もう少し高い場所から1700系を狙っていました。当時のこの場所は空き地だったんですね。
このあとは小田急線の下北沢に行って家に帰っていました。
次回は学校帰りによった玉電の玉電山下付近で撮った写真をアップします。
風邪が少し良くなったのですが、喉と頭痛が残って時々こめかみにヅキンヅキンと痛さが来ます。
早く直さないと撮影しに中々行けない‥‥。
では これで。
(No279)恵那駅で見たキハ07 [昭和時代1]
でした。どうしょうかと考えましたがとりあえずこの恵那駅で途中下車しました。
---1966年12月13日---
恵那駅に下車し、改札口に行かず直接ホ-ムからキハ07がいるヤ-ドに向ったと思います。
当時の恵那駅。急行「第1しなの」が来ました。側線にD51貨物列車が待機しています。
ヤ-ドにはキハ07106+キハ07116の2両編成で止まっていました。明知線にキハ07が入っていた
とはこの時に初めて知りました。この106形は最終的には関東鉄道でキハ611となったようです。
このヤ-ドの後奥には小さな給炭施設がありました。蒸気機関車の石炭をベルトコンベア-で積ん
でいるようです。C12がいたような気がします。
此方の116形は最終配属多治見で廃車となったようです。横の給水タンクがこじんまりしてていい
ですね。
キハ07の100番台からはヘッドライトが埋め込みになりました。横顔も中々です。
行き先板に「明知-恵那」が見えます。当時は明知駅でしたが今は明智駅に変更されています。
連結器が気になります。アップの写真がありました。
仕掛けが分かりませんがナックルの所に太いピンが差し込んでロックしている様ですね。
台車はTR29かな? この形の台車はもの凄い乗り心地で結構楽しいです。鹿島鉄道のキハ07改
造車がこのタイプの台車でした。
キハ07100番台の一部が機械式から液体式に交換して総括制御も可能としましたが、これは総括
制御が可能だったのでしょうか。しかし性能は非常に高性能だったようです。
撮影は15カットほど撮って上松に行くために次の列車で恵那のキハ07と分かれました。
では これで。
(No274)高崎機関区 [昭和時代1]
どうしてか35mmフイルムでは撮っていなく6x6版のブロ-ニのみで撮っていました。きっと撮
り鉄旅行の最終日だったので35mmフイルムが無くなっていたのでしょう。
---1970年3月13日---
あまり当てにならない当時のメモ帳には直江津9時29発で高崎には15時48分に到着と明記
して有りました。高崎には6時間半以上もかかって着いたんですね。
高崎機関区には当時は蒸気機関車の第一機関区と電気機関車の第二機関区と分かれてい
ました。当然のように第一機関区の方を訪れていました。
扇形機関庫は16番線まで有ったようです。
庫の中にで3カット、こうやって見るとC58も可愛い顔をしていますね。
このC1247は桐生(支)の釜だったと思います。左隣にはすでにDD51も入っていました。
お顔が警戒色に塗られた9600。
C11と9600が肩をならべて休んでいますが、C11のシ-ルドビ-ムが黒ずんでいますね。生きて
いたのかな。
9600の奥に止まっているのはC1249。ナンバプレ-トが外されて廃車の様ですね。
ピットには出番を待つC58が止まっています。
蒸気機関車の第一区機関区には真新しいディ-ゼル機関車がDE11が導入されていました。
第一機関区から高崎の駅を見ています。丁度キハ81系の特急「いなほ」が出発して行きました。
高崎の蒸気機関車は主に八高線で石灰を運ぶホキを牽引して活躍していました。残念な事に
当時八高線で活躍していたC58、D51、9600等の姿を見たこともないのです。
高崎第一機関区跡には今は駐車場になっているようですね。
では これで。
(No182)都電スナップ② [昭和時代1]
をしてきました。中華街は久しぶりで美味しい料理と楽しいひと時を過ごしました。
帰りは山下公園からシ-バスに揺られて横浜に出ました。
シ-バスの乗車券。山下公園から横浜まで700円はチョット高いような気がしました。観光船
と思えばこんなもんかな。
---1968年(昭和43年)6月30日---
さて今回は都電スナップで13番系統を御茶ノ水、秋葉原などで撮影した画像です。
湯島の友人宅で会う約束でしたが時間より早く着いたので時間つぶしに近くの13番系統を撮
りに行ったと記憶しています。
13番系統は新宿~水天宮まで走っていました。
この日はあいにくの雨でしたが、車を使っての撮影でしたので、それ程苦になりませんでした。
御茶ノ水駅を出て外神田へ下っていく4000形。この電車は水天宮まで行かず秋葉原駅西口
止まりです。
聖橋をくぐる4048形。この電車は水天宮行きですね。
4048形の後追いです。右にカ-ブしながら外神田へと下っていきます。左の塀は湯島聖堂と
思います。彼方には秋葉原のビルが見えています。
秋葉原の国電ガ-ド下をくぐる新宿行きの4028形。秋葉原駅西口付近と思います。
秋葉原駅西口付近で万世橋方面から水天宮行きの4043形が来ました。
水天宮付近です。前の4000形の行き先幕はすでに新宿行きになっていますが、後の7000形
は、まだ水天宮行きのままです。
ネガはここで終わっています。きっと湯島の友人宅に行ったのでしょう。
13番系統都電の思いでは、小学生時代は新宿区の矢来町と云う場所に住んでいました。この
都電の近くの駅が牛込北町と云うところで、この駅から交通博物館に遊びに行く時、よく乗りま
した。当時の電車賃が13円(大人の料金だったかなあ)だった覚えがあります。ちなみに交通
博物館の入場料は大人10円、子供5円だった様な気がします。
これで都電スナップはお仕舞いです。
では これで。
(No181)都電スナップ① [昭和時代1]
1本は何となく撮った記憶がありましたが、もう1本の方が全く覚えていません。
その覚えていない昭和43年頃の都電スナップの画像を見てください。
まず、高校生の時に使用していた都電の定期です。まだ網の目の如き都電が走っていました。
又、当時定期代1ヶ月どのように作っても360円でした。名前は消してありますが、まだバリバリ
の17歳の時です。
さて時代は昭和43年の大学時代です。写真を見ていると、どうやら車を利用して撮っているよう
です。ネガに月日が書いていないので判らない。
勝鬨橋を渡る7514形。9系統は渋谷~日比谷経由~新佃島間を走っていました。
勝鬨橋を渡って清澄通りに来たようです。追いついたのでしょう月島辺りで再び7514形を撮って
います。
7514形の後追いです。多分清澄通りで月島辺りと思います。
場所が変わって、車が横切って見ずらいのですが、都電の築地駅が見えます。
これで9系統が終わっています。
次は、中央通りの日本橋付近に行ったようです。東急百貨店が見えます。15系統、3000形を
撮っています。15系統は高田の馬場~木場町を走っていました。
この後は呉服橋で17系統、3000形を撮っていました。ホテル八重洲龍名館が写っています。
ちなみに17系統は池袋駅前~数寄屋橋まで走っていました。
ここは江戸橋辺りかなぁ。38系統1500形です。38系統は錦糸堀~日本橋間を走っていました。
水天宮です。21系統6000形を撮っています。雨が降ってきたんですね。21系統は千住4丁目
~水天宮前を走っていました。
この写真は43年の日付が違います。
今は無き交通博物館をバックに、万世橋で24系統4000形を撮っていました。24系統は福神橋
~須田町まで走っていました。
交通博物館で鉄道友の会の会員になったのもこの時代ですが、名前は消してあります。会員証
を見ると1年更新ですが、どうやら更新しないでこのまま辞めたみたいです。4200番今どうなって
いるのかなぁ。
当時、都電が無くなるという事で、適当に車を走らせて撮りに行ったようです。
次回は、また都電です。御茶ノ水、秋葉原辺りで撮った13番系統の写真を予定しています。
では これで。
(No169)奥羽本線大館 [昭和時代1]
訪れた後に、大館駅ホ-ムで少しスナップを撮っていました。
下り青森行きが停まっています。こおゆう客車は郷愁を思わせます。チラット見えてる窓の
日よけがいい感じです。
上りC6124牽引の普通列車が到着しました。
機関車の右のラッパみたいのは発車ブザ-でブ-と鳴ると同時に機関士と助士が「出発進行」
と連呼して機関車の汽笛を鳴らし発車して行きます。
列車が到着すると、係りの職員がテンダ-に登り給水や石炭均しをして運転がスム-ズに
出来るようにしていました。
ホ-ムでは駅弁屋さんが長い客車を行ったり来たりの大忙しです。
手にはこれまた懐かしい100円札を握り締めていますね。
私もこの100円札を1枚持っていますがこんなにボロボロになってしまいました。
青森から運転してきた乗務員はここで交代です。釜の調子等を伝えていました。
暑い中の運転ご苦労様です。ひと仕事終えてタオルで気持ちよさそうに汗を拭っています。もう一人の
機関士の方は運転記録でも書いているのでしょうか。
乗務員の交代も終わり、交代した乗務員が確認作業しています。
さて、そろそろ出発です。後方確認する機関士。
発車のブザ-がなると汽笛が鳴り響きC6124は黒煙をはいて大館を出発して行きました。
この昭和41年8月の旅行先は奥羽本線の矢立峠、五能線、米坂線の訪問ですけど‥‥どうやって行
ったか全然覚えていません。ネガカバ-には年と月しか書いていないのでネガを見ながらハテハテ困
ったもんだと自分を責めています。
まぁ、いずれにせよ昭和45年8月1日~6日間で旅をしたのは確かなんですがね。
では これで。
(No135)福知山線武庫川渓流 [昭和時代1]
雨で急遽部屋で食事会に変更とになりました。
さて、1968年(s43年)3月19日に福知山線の生瀬~武田尾まで線路に沿って武庫川渓流を歩い
たのでその時の写真を。
生瀬に行く途中に撮ったのですが場所がわかりません。何処の駅だろう。
手前は急行「丹波1号」。駅に入線してくるキハ58形にヘッドマ-クが着いているのですが良く分か
りません。これも何処の駅だろう?
本当は生瀬からひと駅歩くつもりも無く精々武庫川そばて撮る程度でした。ところがたまたま同業者
の方がいまして、その方がひと駅歩くということでご一緒にご同行させて頂きました。この方は何回
か訪れているみたいでかなり詳しいみたい。
という事で歩き始めました。
生瀬駅からどの様に武庫川に出たか覚えていませんが、武庫川渓谷を沿った福知山線を撮るのは
非常に怖い岩場を登ったり下ったりしながら歩いた覚えがあります。
DF50牽引貨物列車とDF50牽引客列車をカラ-で撮っていまた。釣りをしている方が見えますので
それなりの道があったのかも知れませんね。
大阪~博多を山陰本線経由で走っていた特急80系「まつかぜ」が通り過ぎて行きました。
第2武庫川橋梁渡るDD54牽引客列車。いままで右に見ていた武庫川は左側に移り武田尾へと進みます。
山裾を沿って走るDF50牽引客列車。後方の橋は神戸水道橋みたいです。
武庫川渓谷から小道に行くと集落が見えてきましたそろそろ武田尾駅に近くに来たようです。
無事に旧武田尾駅に着きました。左の方と一緒に行動しました。ひと駅歩く予定をしていなかった
のでお蔭様でとてもいい思い出となりました。しかし渓谷の岩場を歩く服装でないですね。
旧武田尾駅は現在の駅より300m位手前にあったようですね。
武田尾駅で列車交換です。このDD51牽引客列車で大阪まで戻りました。
今思うと、歩いた半分以上はそれなりの小道はあったと思いますけど武庫川渓谷の危険な岩場を
よく歩き通したものだと思いました。
今は廃線跡がハイキングコ-スとなっているようです。
では これで。
(No106) 松本駅ホ-ムで [昭和時代1]
松本駅ホ-ムで大糸線色と言われたクモユニ81とクハ55のカラ-写真が少し有りましたのでアップします。
てなことでもう少し大糸線と付き合ってくださいね。
---昭和50年代?---
但、撮影日の記録がありません。多分昭和50年代と思われますが。
特急「あずさ」とクハ55(と思います)
横顔。運転室ドァ-の真鍮製の取っ手ノブがいい形をしています。
細かい窓とリベットそしてグロ-ブ形ベンチレ-タがいいてすね。
大糸線専用ホ-ムでしょうか、湘南形のクモユニ81が停車していました。
忙しく荷物の出し入れを始めました。
リヤカ-に荷物を沢山積んで運んできます。どいてどいてと聞こえてきそうです。
大糸線関係はこれでお終いです。
お付き合いありがとうございます。
さて次回はどうしようかな。
では これで。
(No96) 京福電鉄 [昭和時代1]
5種類の薬味が出ました。ネギ、しその葉、ワサビ、大根おろし、そして七味。
とり箸と割り箸入れがお洒落です。
お蕎麦の量が少ないけど天ぷらで満足しました。
さて、
今日は京福電鉄のポ-ル電車を見に行った時の画像です。時は昭和41年12月23日です。
当時どうしてもポ-ル電車を見たかったので九州旅行の途中でチョット寄りました。
当時の出町柳駅。これ以来訪れたことはありません。ずいぶん変わったのでしょうね。
待望のポ-ル電車の走っている姿を見て感激しました。
デナ200が出町柳に到着しました。行先板はすでに岩倉行きになっています。
次の駅まで歩くことにしました。途中の踏み切りで格子戸の家が京都らしかったのでしょう電車を入れて撮りました。
馬ズラ顔に見えるデナ500が元田中駅に停車。ハ瀬遊園行きです。
元田中駅を出発するデナ500。
出町柳駅から元田中駅まで歩いたと思います。帰りは電車に乗って出町柳駅まで戻りました。少しの時間だったけどポ-ル電車が見られ満足したようです。
そしてこの日はこの後の行動の記憶がありません。ネガを見ると京都駅のホ-ム、京都駅から夜行列車を待ったのでしょう。翌日は柳井、小郡に行っています。
昭和45年10月上野のモノレ-ル
では これで。
(No79)南海電鉄高野線(橋本) [昭和時代1]
橋本には親戚がありました。当時高校生だった私には、大人の会話などついて行けず途中から抜け出して撮りに行ったと思います。
南海電鉄高野線の橋本駅構内と車輌基地。
呼び方は貨物電車デト1001でいいんでしょうかね。橋本駅構内に停まっていました。
20000系デラックスズ-ムカ-「こうや号」がきました。当時は新車でピカピカでした。
モハ1251形でしょうか、全長15mクラスの小柄な車両ですかね。ズームカー登場後も高野線の中堅車両として活躍していました。
紀見峠にて
準急のズ-ムカ-が橋本に下っていきます。保留線にはED5100が貨車1両つないで待機していました。
小学生の時代では、田舎に行く時は「つばめ」か「はと」で、大阪から難波で南海電鉄高野線の「こうや号」に乗って行きました。紀見峠越えにさしかかると両親は崖っぷちを走る事と、地下水が垂れてくる、崩れそうなトンネルが怖いとの話をしていました。そんな山深い中を電車が走っていました。。当時、難波から乗った「こうや号」はズ-ムカ-だった様な気がします。今は通勤圏内で住宅地となってしまいましたね。
では これで。
和歌山線(嵯峨谷川) [昭和時代1]
私の田舎は和歌山県の高野口町嵯峨谷と言う山深い静かな部落にあり、幼い頃は8月のお盆になると両親に連れられ毎年里帰りをしていました。その様な場所に田舎があったので、関西方面に旅行した場合は立ち寄ったりしていました。
田舎は橋本からバスで嵯峨谷橋という所で降りてここから嵯峨谷川沿いに歩いて行きます。そのバス停の近くに和歌山線が走っています。今回は昭和38年8月にその田舎に遊びに行った時に、ここで撮影した画像です。
国道24号、嵯峨谷橋でバスを待っている時に通過した準急「はまゆう」
嵯峨谷川を渡る和歌山方面に行くC58客車列車。田舎の帰り道で偶然に来ました。きっと汽笛が聞こえてあわててカメラを取り出したのでしょうね。左側の奥に見える山が高野山です。
この列車は珍しくC58の補機がついていました。17mクラスのダブルル-フの客車がまだ走っていたのですね。
嵯峨谷川の鉄橋(名称不明です)を渡る橋本方面行きの気動車キハ17。
追っかけです。夏の暑い日、貫通トビラを開いて風の通り道を作って涼しくしているようですね。
もうその田舎は無くなりましたが、橋本に親戚があるのでたまに遊びに行くときはこの国鉄時代の和歌山線を思い出します。
橋本駅でも南海電車と和歌山線を撮っていますのでその内画像をお見せできると思います。
では これで。
大井町線(併用軌道の二子橋) [昭和時代1]
今日は大井町線、道路併用軌道の二子橋で撮影した画像で、時代は昭和39年7月と昭和40年4月と8月に訪れています。
私が世田谷の砧に住んでいた時は、まだ二子玉川園駅に玉川電気鉄道の玉川線、砧線との接続駅でした。
大井町線の二子玉川園~二子新地前間は二子橋を道路併用軌道で、しかも単線区間でしたが、41年3月には複線の専用橋と新しい二子玉川園駅と二子新地前駅が完成して、電車が道路併用軌道で走る姿を見ることも無くなりました。
二子橋道路併用軌道の全貌。彼方が二子玉川園方面です。脱線でもしたのでしょうか道路に2本のキズが跡が‥‥。
その二子玉川園駅です。玉電と大井町線が隣り合わせです。砧線もここから出ていましたね。
二子玉川園駅構内の上野毛側にヤ-ドが有った様な気がします。ステンレスカ-の6000系(愛称が「湯たんぽ」と言ってたみたいです)が待機していました。
二子玉川園駅を出て併用軌道の国道246号線二子橋を渡ります。クハ3662形
車と団子状になって二子橋を渡るデハ3500形。右奥が二子玉川園側です。
二子新地前に向かうクハ3863形。 屋根の修理跡が痛々しいですね。
クハ3864形が二子玉川園に向かって行きます。
国道246号線はここで右にカ-ブして線路を跨ぎますが、踏切りの警報機は遮断機も無く、二子新地前方面に入る所にぽつんと立って電車を来るのを知らせていました。まっ、当時はこれでも良かったのでしょうね。
左の車はトヨタのクラウンですね。この頃の乗用車のタイヤは殆どバイアスのホワイトタイヤでまだラジアルタイヤが珍しかったですね。
電車を追いかける様に、バスが軌道内に入っています。 オ-ト三輪も懐かしいですね。徐行運転していますので、電車の後ろは車が連なっていたのかなぁー。
歩行レ-ンも無いので渡るのに怖かったか知れません。
二子玉川園から上野毛間も撮ってありましたが、たったの2場面で6カット。今となっては悔やまれます。
林に囲まれた切り通しのSカ-ブ区間を過ぎると二子玉川園に着きます。当時はこんな場所で撮れたんですね。
確かこの下には小川が流れていた記憶がありますが。今でもあるのでしょうか。
切り通しの中を登って来たデハ3474形。ここを登りきると上野毛ですね。この辺りは今でもあまり変わっていない様な気がしますが。どうなってんでしょうね。
昭和40年の3月と8月に訪れた時には、既に鉄道専用橋の工事を開始していました。
複線用の立派な橋げたが順次作られていました。(8月)
二子新地前側も線路工事をしていました。(3月 国道246号から)
田園都市線も41年4月に向けて着々と工事進めていました。右側が溝の口方面です(40年8月国道246号から)。車も少ないですね。現在の宮崎台付近だったと思います。
これ以降は二子橋には行っていませんが、現在の駅は高架駅となってすごく立派になり、この33年の間の変貌ぶりには驚きを感じています。
では これで
世田谷線(夜の下高井戸) [昭和時代1]
昨日の続きで世田谷線夜の下高井戸スナップです。
フイルムはトライⅩ、カメラは旭ペンタックスSL、レンズはタクマ-28㎜f3.5です。トライⅩを撮影時ISO1600相当で撮って現像で2倍増感しました。カメラには露出計がついていないので勘で撮影しました。載せたコマにはトリミングしているものも有ります。
昭和45年7月、夏夜の出来事です。
凹ホ-ムの終着駅でメインの改札口側
ステンレスのカバ-が張ってある改札口。当時の乗車料金は20円均一だったんですね。
切符売り場です。定期券と回数券の発行でしょう。
乗車ホ-ム側には乗務員や駅員の詰所が有りました。
デハ150形が到着。側面をコルゲーションのステンレス化で近代的なのに、動力は吊り掛けでしたね。
京王線から覗いて見ました。
ホ-ム側から見た改札口前。何時頃でしょうか。夜もだいぶ更けて来ました。
乗車ホ-ムはトラさん達が気持よくお寝んねしていますね。
駅員さんがゴミ籠を引いて掃除をしはじめました。籠は松原駅と書いてあるのですが何故?
大分遅くなりましたので、そろそろ私も帰ると致します。
学生時代、調布でアルバイトしていたので、その帰りのついでに撮影しました。
では
(No24)世田谷線(山下) [昭和時代1]
明日の夕方辺りから雪が降るとの天気予報。寒さが続きますね。寒いときは鍋物が美味しくて暖まります。今日は手作りの水餃子。グラグラした湯に残り物の野菜と一緒に入れ、熱々の水餃子に酢醤油に少々の胡麻油ときざみ生姜を混ぜたタレを付けてフウフウしながら頂きました。美味しかったで~す。
今回は世田谷線の写真を。
昭和44年5月までは玉川電気鉄道と通称玉電と呼ばれていましたが渋谷~二子多摩川園と二子多摩川園~砧本村間の廃止により世田谷線に改称されました。私の場合は、玉電というイメ-ジが強く、思わずまだ玉電と言ってしまいます。
昭和40年前後の学生時代、鉄道模型をかじっていたころは、豪徳寺駅から当時の駅名で玉電山下駅の踏切りを渡って経堂よりに少し歩いた所にキャッチフレ-ズが「店は奥でも品物は一ぱい!」と言う鉄道模型屋さんによく通っていました。今でもあるのかなぁ。
という訳で昭和45年すでに改称されていた山下駅近辺の写真を少しばかり。
山下駅 小田急線上りのホ-ム端が見えますね。何時か其処から世田谷線を撮ろうと思っていましたが、結局撮らずじまいでした。懐かしい4輪の乳母車から子供が電車を見ており可愛いですね。
小田急線豪徳寺駅側の反対側は閑散として店舗などもなかった気がします。左側に北沢川が流れていて小さな鉄橋がありました。松原から電車が到着しましたが、警報機もない踏み切りだったんですね。
その山下駅近くに流れている北沢川。現在は北沢川緑道となって美しい散策道になっています。
まだまだこの辺りも畑が多く農家の方がリヤカ-を引いていく姿が見られました。北沢川沿いの道にて。
駅前の建っていた古い建物は店じまいした家具屋さんですね。二階はアパ-トかな。洗濯物の下にプロパンのガスポンベが柵もなく無造作に置いてありますのが怖いですね。
70形が隣の駅、松原から来ました。当時ここにポイントの設備がありましたが今はもう有りませんね。
この時代から既に乗務員がマイクでアナウンスしていたのですね。
山下駅から小田急豪徳寺駅に行く路地の写真をどういう訳か撮っていないのです。悔やまれます。
次回も昭和45年の世田谷線で夜の下高井戸駅を予定しています。
では
(No20)加悦鉄道(機関車・客車) [昭和時代1]
急に寒くなり風を引かないように注意しなければと思いながら今夜は熱燗で一杯でもやろうと台所へ。酒のつまみはどうしょうかなと見に行くと、ホタテの缶詰を見つけた。何となくホタテ入りのシュウマイが妙に食べたくなってしまいレピシを見ながら作りました。結構うまく出来て、カミサンがうまいうまいと食べてくれました。もちろん熱燗のつまみにも最適。
さて、以前に「加悦鉄道の気動車」をだしましたが今回は機関車と客車の写真を見てください。
蒸気はすでに廃車となっており、木造の客車も、もう使われていないようで、どちらも加悦駅構内に静かに止まっていました。
綺麗に磨かれていたイギリス・スティブンソン社製の超古典機2号機。重要文化財に指定されていますね。しかし何故こんな大きなタ-ンテイブルがあるんだろう。それなりの機関車が有ったのでしょうか。
川崎造船所製の4号機。コンプレッサ-とパイピンク゜が厳ついです。
日本車輌製造の1261号機。
蒸気機関車達は火を落として留置されていましたが、まだ現役で動いているような気持ちで撮影していた思い出があります。
随一、当時活躍していた森製作所作成のDB201
加悦駅構内の側線には博物館みたいに古典客車が並んでいました。順に追ってみました。まずは加悦鉄道最大の木造ダブルル-フの客車ハ10 大正15年生れ
次につながれていたのはハフ2 これも大正15年生まれだそうです。
次はハ21 原型は明治生まれだそうで加悦鉄道に来て改造されました。
ラストはハ20です。ハ21に比べてかなり傷んでいますね。
この様な古典木造客車を古典機に引かれてコトコトと走っていたなんで想像もつきません。いつ頃まで動いていたのでしょうかね。
構内を探索していたら、いつの間にか天候が悪くなり、また雪が降りはじめてきたので、早めに丹後山田に戻り、丹後山田付近で国鉄の列車時間待ちの間、撮影をしていました。
加悦鉄道5.7㌔の間には5つの中間駅が有ったのですが、当時キハ51に乗車したにもかかわらず全然記憶に無いのです。今考えると残念。ま、38年前の過去の事だからしょうがないかな。
では
(No16)中央線の支線「下河原線」 [昭和時代1]
1965年(昭和40年)。多摩川のジャリ運搬用の中央線の支線で国分寺~東京競馬場前駅と貨物駅の下河原駅を結ぶ下河原線がありました。特にこの線を目的として訪れなかったのですが偶然に見つけたようです。
そこは東京競馬前駅と下河原貨物駅の分岐点に小さな信号場でした。ハ-フカメラでたったの5カットしか撮っていません。撮影日は昭和40年5月3日のことです。
タブレットが見えますが閉塞運転をしていたのでしょうか。又、どんな車輌が走っているのか当時私は知りませんでした。
探索していたら偶然にクモハ40が来たんでしょう。信号場が隠れてますね。当時はこのタイプの車輌が2輌有ったそうです。写真の右に写っている自転車は私が乗っていた当時では新しいナショナルの自転車でサイクラ-と言う名称で外装10段変則のスポ-ツ車です。軽くするために泥除けをはずして乗っていました。
前の写真の後追いです。左側に入り東京競馬場前駅方面に行っています。まだまだ畑がばかりが目立ちます。
右側の貨物線側に腕機信号が見えます。5月3日は祭日、貨物の運用もお休みだったかも知れませんね。左側は結構住宅地になっていたんですね。
そうこうしている間に戻ってきたのでしょうか。多分国分寺行きと思います。
古い写真を見るたびにもう少し写真を撮っておけばよかったな-と思っています。
で、ネガを見るとこの後は、西武多摩線の是政から南武線を撮っていました。
では
(No14)木曽森林鉄道(1970年) [昭和時代1]
1970年(昭和45年)12月まだ学生の頃です。冬休みを利用してクラスメイトと飛騨高山方面に旅行した時に寄り道した上松の木曽森林鉄道の王滝森林鉄道です。
新宿から長野行きの普通夜行列車に乗り、朝方塩尻で中央西線に乗り換え上松に来た様です。上松には以前1966年(昭和41年)に一度来ていましたがどうしても鉄道ファンでもない友人に見せたかったので寄り道をしました。本当は私が行きたかったのでしょうね。でも、こんな鉄道があるんだと友人はすごく感激していました。
昭和41年には上松駅ヤ-ドの貯木場から材木加工場へオメガル-プで下り線路がありました。まるで模型のレイアウトの様でした。2度目に行った時にはすでに撤去され生活道路となってガッカリした覚えがあります。
上写真は1966年撮影です。
1970年にはすでに取り去られ、線路跡には何かの車輌の台車かフレ-ムか。
生活道路に変わった線路跡。こんな狭い急カ-ブを材木を積んだ車輌がギシギシと通ったなんて信じられません。 家々には薄く切った木板が高々と積んで乾燥させています。この板はこの後何になるのでしょうか?
木曽川の河原に降りて見ました。彼方を眺めると薄らと白くなった中央アルプスを背景に材木を満載に積んだ車輌が小さく見えてました。
木曽川の対岸から中央西線を眺めています。丁度D51が牽引貨物列車が来て、最後部にはC11の補機が付いていました。手前は森林鉄道の木材用台車が所狭しと置いてありました。
再び上松の貯木場ヤ-ドに戻って来ました。朝顔型カプラ-で連結された木材列車。動いている所を見たかった-。
こんな感じでゴトゴトとゆっくり走って来たのでしょうね。
てな事で、2時間程度見学。記念写真を撮ってこの後、飛騨神岡へ行きました。しかしずいぶん短いスリムパンツをはいていますね。私ですが。。。
昭和41年の上松の木曽森林鉄道は、又いずれに。
では
(No12)加悦鉄道の気動車(丹後山田・加悦) [昭和時代1]
今回は昭和45年3月12日に行った加悦鉄道の古い写真です。現在は北近畿タンゴ鉄道宮津線の野田川駅となっていますが、当時は国鉄で宮津線の丹後山田駅でした。 今回は気動車だけの写真です。
丹後山田駅を出発するキハ51
丹後山田駅 左側の見える待合室は国鉄の宮津線
キハ51の機械式運転台 かなりのご年配の方が運転していますね
キハ51の車内 暖房設備はホ-スが見えるのでプロパンスト-ブのようです。
加悦に向かうキハ51 加悦駅までわずか5.7㌔。現在はサイクリングロ-ドとなっているようです。
丹後山田~水戸谷
加悦から帰ってきたキハ51 丹後山田~水戸谷
加悦駅 2階建ての立派な駅本屋が建っていました。右の車輌は片ボギ-のキハ101
キハ101
加悦駅で記念撮影 当時は万国博開催していました。万国博見学日帰りバス旅行の案内が見えます。
加悦には蒸気機関車、ディ-ゼル機関車、客車など置いてありましたが蒸気は全て火を落としていて、2号(これは綺麗に磨かれていました)、4号、1261号の3両。DB201は健在でした。これら、いずれご報告いたします。
では
(No5)京王御陵線跡 [昭和時代1]
1966年(昭和41年)3月に京王線の御陵線跡を見に行った時の写真がありました。40年前ですが自転車で行った事は覚えています。しかしどの様な行動したのかまったく記憶がありません。フイルムを順番に追って当時の地図と現在の地図を参考にして、その写真の場所を確認しようと思い2006年8月に出かけました。古い写真は現在の北野、京王片倉、そして山田からは右方向に曲がり中央本線をまたぐところでフイルムが無くなっていました。写真は北野~京王片倉間、山田~中央本線間で大まかな場所です。
30年前の北野駅。ホ-ムは片式と島式で島式の1本(右側)は行止まりとなっています。
北野駅より八王子方向です。 ここから先は単線となって右にカ-ブして京王八王子へ向かいます。御陵線跡は左建物職員詰所?の先辺りから左にカ-ブして築堤となって丘陵地帯へと入っていきます。
現在の北野駅。駅舎はもう少し先ですね。立派になりましたね。
築堤が御陵線跡で右側に小さく見える鉄橋の下を横浜線がくぐり、右のくぼ地は湯殿川と思われます。
右が北野駅方面です。
高層マンション、住宅そして湯殿川も整備されました。架線柱が見えるのが京王線。築堤はコンクリ-トの高架線になりました。写真に横浜線の電車が走っています。
片倉付近。八王子の丘陵地帯に入ってきます。手前側が現在京王片倉駅方面
上写真と場所が違いますが、現在の片倉付近 後方方面が京王片倉駅。
片倉辺りの御陵線跡。後方に国道16号と思われる鉄橋が見えています。
国道16号です 雰囲気的には、極端に変わっていないようですね。
現在は鉄橋を渡った左側に京王片倉駅があります。
近くに道がよく分からなかったのでしょうね。写真が片倉からいきなり山田付近にとんでいました。しかし民家が殆ど無いですね。
今は山田駅があります。同じ陸橋からの撮影です。金網が写ってうっとうしいですね。
同陸橋よりめじろ台方面。 この先から御陵線は右方向へと行きます。路線跡には雑草がすごく、これでは歩いていけませんね。
現在の山田駅
ここ山田から御陵線跡を追って小道を進んだと思います。この辺りは切り通しから築堤となっていて、左側が山田方面と思います。
上写真の築堤に上がったのでしよう。まだ架線柱と古枕木が残っていて感動しましたね。現在のどの辺か分かりませんでした。
丘陵地帯も終わり中央本線に近くになるとすでに御陵線跡を利用した道路工事が行なっていて御陵線の跡が不明でしたが、それらしき物が右側に枕木の柵が残っています。しかしこの悪路を自転車で下ったのですね。
現在はこんな感じに立派市街地となっています。
最後がこの中央本線を跨いでいる写真です。鉄橋と築堤が残っていたんですね。偶然にEF13が牽引する客列車が通過したのでしょう、3月なので暖房車が付いており煙を吐いています。
現在はご覧のとおりなにもありません。御陵線跡が道路となって中央本線をくぐっています。
40年でこんなに変わるとは、当時少年時代の私には思っても見なかったんでしょうね。改めて現地を訪れて懐かしさがこみ上げてきました。
写真と当時の地図などで比べながら載せていますが、何せ昔の事で記憶も無く間違いがあると思いますのでご了承下さい。
長々とお付き合いありがとうございました。