(No237)磐越東線(昭和時代) [東北旅行1(昭和時代)]
時は1967年(昭和42年)9月18~19日に出かけています。
車は鉄友が借りてきた2000cc4気筒コラムシフトのクラウン。マフラ-に穴が開いていたりして
大分ガタがきていましたが、結構中々調子が良かったです。
前日は常磐線の広野にある折木温泉で一泊。そして当日の朝は常磐線の久ノ浜辺りでC62の
「ゆうづる」を撮影したあとに、磐越東線に行きました。
平(現在いわき)から県道41号線(磐越街道)を小川郷に向って走ります。
小川郷駅の構内は巨大なホッパーがあり
現在では撤去されているそうです。
D60牽引の郡山行き客列車が小川郷から出発してきました。
小川郷駅からは渓谷沿いを走る磐越東線そして磐越街道が磐越東線沿線に沿って走ります。当
時の道路は砂利道で車は時々お尻を振りながら走りました。
大分山が迫ってきました。夏井川と線路に挟まれて磐越街道をひたすら走ると踏み切りに出ま
した。しばらくその近辺で撮影しました。
踏み切り付近で平に向うD60牽引の貨物列車。
踏み切りから少し走ると道路が高くなり展望が出来るところに出ました。準急「いわき」でしょう
か郡山行きが来ました。トンネルの前に先ほどの踏切が見えてます。
D60と9600の重連貨物が来ました。どちらも動輪が4つあるので力強いでしょうね。
この踏み切りで磐越東線をまたいでしばらくすると今度は夏井川が間に入ったので撮影も出来ず
このまま江田(信)まで走りました。
江田(信)を出ですぐに夏井川の鉄橋を渡るD60牽引平行きの客列車。
D60牽引の短い貨物が夏井川の支流を渡り江田(信)に到着です。
追いかけです。江田(信)にはスイッチバックの引き上げ線が山裾を巻くように引かれていました。
引き上げ線にD60の単機が列車交換のため休んでいます。
待機していたD60単機がバックしてきました。本線に入ると平の方に出で行きました。
今回活躍したトヨタクラウン。鉄友はビンのコカコ-ラを持っています。まだ自動販売機も殆んど
無かった時代、途中のお店で買ったんでしょうね。
撮影も終わり再び平に戻り国道6号線で東京まで帰りました。当時は高速も無いので時間がえ
らくかかった記憶があります。
では これで。
(No78)東北旅行(奥中山)⑳ [東北旅行1(昭和時代)]
磐越東線のD60を撮影して平に戻って来ました。
下り22時25分平発急行「十和田」で北上し盛岡に4時25分に到着。6回目の夜行列車となりました。そして盛岡5時40分発の普通列車で奥中山(現在は奥中山高原駅)には7時12分最後の訪問地に到着しました。
時は40年8月18日です
奥中山の駅舎。現在もあまり変わっていないようですね。
下りD51+C61の重連の客列車が到着、上り特急「はつかり」と列車交換しました。
ここ待避線は駅構外が勾配となっており、後方が入りきらずそのためスイッチバックになっていました。下りD51866+D51?+D51459の3重連が待避線に深く入線し、そして50両の貨車をつないだ1000tの貨物列車は、後退して停車しました。しばらくすると下りC617牽引の客列車が到着。後方にD51の補機ついていました。ホ-ムを降りて列車に急いで乗ろうとしている乗客が見えます。おおらかな時代だったのですね。
奥中山の有名な大カ-ブはかって吉谷地信号場というスイッチバックだったそうですね。
奥中山の撮影も終わり明日は東京に帰ります。下り15時50分発で青森に行きました。
途中で西岳信号場のスイッチバックで上り貨物列車が前2後1の3台運転と列車交換しました。
青森には20時15分に到着。22時40分発の特急「はくつる」が入線、ヘッドマ-クをつけたC6119が連結されました。その30分後には、23時10分発上野行き急行「八甲田」に乗車し一路南下、7回目の最後の夜行列車で上野には8月19日の13時36分到着致しました。
当時使用しました東北周遊乗車券で、学割3600円でした。私がまだ18歳の時です。
8月9日上野を発って10日間の東北旅行が終わりました。宿に泊まったのがわずか2泊で残りは殆ど夜行列車で移動、18才という若さでしょうね。これに味を占めたのか、凝りもせずに鉄道旅行には夜行列車の利用が癖となりました。
長い間ご笑覧頂きありがとうございました。
では これで。
(No77)東北旅行(小野新町)⑲ [東北旅行1(昭和時代)]
平機関区の見学も終わり この後磐越東線で小野新町まで乗車してD60の走行写真の撮影に行きました。
しかし何で小野新町を選んだのか今となってはよく分かりません。
平発8時54分D6047牽引の客列車に乗車し小野新町には10時25分頃に到着しました。
丁度、平行きの準急「いわき1号」との列車交換をしました。
郡山方面に向かうD6075貨物列車。小野新町には木造の単線機関庫がありました。
平行きD6048牽引の客列車。右側に転写台もありました。
郡山行きD6038牽引の客列車。小野新町付近(神俣方面)
小野新町から神俣方面に歩きました。平行きD60牽引客列車
D6019牽引の郡山行き客列車
何か期待はずれの撮影も終わり、小野新町17時26分発の平行きに乗車して平に戻ります。
磐越東線に沿った道路はまだ未舗装でした。砂埃を上げて車が走っています。
列車は川前に到着しました。D60と9600の重連貨物列車が待機していました。
川前で郡山行き客列車と列車交換をしました。大きな給水塔は今でも何となく覚えています。
小川郷。右の大きなホッパ-はセメント材料の石灰石です。当時は小川町の中心駅であったため、駅を中心に集落が形成されていたそうです。現在どうなっているのでしょう、駅舎を残して無人駅となってしまったようですね。
結局小野新町まで足を延ばしましたが煙を吐く場所も無く平凡な写真しか撮れませんでした。明日はいよいよ最後の訪問地「奥中山」へ行きます。
では これで。
(No76)東北旅行(平機関区)⑱ [東北旅行1(昭和時代)]
大変と思い早々草刈、30分程度で終了しさっぱりとしましたが、腰と肩が痛くなったのは言う
までもありません。歳には勝てませんね。
さて
思い出したように今日は東北旅行(陸中大橋)⑰の続きです。
そろそろ旅行も終わりに近づいてきました。陸中大橋から準急「はやちね2号」で盛岡に到着しま
した。まだ日付は8月16日です。
盛岡23時05分発急行「第2十和田」で明日は平に5時25分に到着します。「平」は今の「いわき」
ですね。平は昭和40年8月17日、5回目の夜行列車で南下します。
平駅に到着した「第2十和田」。リックを背負っている男性は私の友人でが、何が入っているので
しょうか大きなリックですね。
まずは平機関区へ訪れました。C62のラストナンバ-49が庫の中で休んでいました。
扇形機関庫の全貌です。
D51,C62,C57,9600,8620など48両管理していました。
29620は給水温め器が前部に取り付けられた機関車でした。
また、珍しいS字キャブの58660がありました。
転写台のコントロ-ル室の予備が置いてありました。何か可愛い感じです。
なめくじ型と標準型が肩を並べて休んでいます。
このC6248は平機関区のC62の中でもっとも性能が良かったそうです。
C6210とC6238
常磐線の平~仙台区間で活躍していたC62の走りっぷりは他の蒸気機関車より違うような速さで走
っていた気が致します。乗っていてもそれが伝わってくる感覚は今でもよく覚えています。
この後は、磐越東線の小野新町を訪れていますので、次回は小野新町の画像を予定しています。
では これで。
(No69)東北旅行(釜石線陸中大橋その2)⑰ [東北旅行1(昭和時代)]
時は昭和40年8月16日です。
釜石線の陸中大橋から洞泉側を探索し、再び陸中大橋の駅に戻ってきました。往復で4㌔近く歩いているのに、今度は山に登っています。若かったのですね今では考えられません。
ネガフイルムを見ますとオメガル-プトンネルの上有住側に来て、その後山道を更に登り鬼ヶ沢鉄橋を見下ろす場所へ行っています。イャ-タフだったんですね。
尚、
この場所から撮影した大俯瞰の画像は前回紹介いたしました「なめくじ会鉄道写真館」のホ-ムペ-ジにも載せていますのでご覧下さい。
http://home.a00.itscom.net/yosan/jyoki/kamaisi/kamaisi.html
オメガル-プトンネルに入るD51貨物列車。上有住側に煙を吐き出す風送装置があり蒸気機関車がトンネルを出るとトンネル内に風を送り陸中大橋側にある煙突からモクモクと煙が立ち上がり排煙していました。
画像の真ん中に角ばった煙突からの煙が出でいます。陸中大橋駅前にて。
駅構内には立派なコンクリ-トのホッパ-があり、日鉄鉱業のスイッチャ-が入替え作業しています。今はこのホッパ-のコンクリ-ト部分が残っているようですね。
大橋が一望出来る場所まで登りました。国道と沿った左横には大橋と釜石を走っていた元釜石鉱山鉄道の線路跡が見えます。その横をD51牽引の貨物列車が煙を吐いて陸中大橋に向かってがんばって登って来ました。手前の鉄橋が鬼ヶ沢鉄橋です。オメガル-プで登ってきて上有住方面に行きます。
釜石行きキハ58の準急列車が鬼ヶ沢鉄橋を渡っています。我ながら結構高いところまで登って撮ったんですね。
鬼ヶ沢鉄橋からオメガル-プトンネルを一回りして釜石へ向かって下って行くキハ58の準急列車。
7両編成で到着した準急゜「はやちね2号」が到着いたしましたが、ホ-ムが足らないのか階段を用意して乗客を降ろしていました。
撮影も終わりこの陸中大橋18時12分発盛岡行き「はやちね2号」で盛岡に戻ります。結構混んでいて我々は車内に入れずドァ-のそばで乗っていました。当時はク-ラも無く蒸し暑い車内そしてディ-ゼル特有の臭いで盛岡に着いた時に友人の一人が気持ちが悪くなり体調を崩してしまいました。盛岡には20時24分に到着しました。
盛岡に来ていたD62のラストナンバ-20号機。
下り青森行き特急「はつかり」が来ました。
明日は平機関区と磐越東線小野新町を訪れています。友人は盛岡についても体調が良くならず彼とはここで別れ早めの夜行列車で帰宅。残った我々は盛岡23時12分発の夜行列車急行「第2十和田」に乗車して平(現在はいわき)には5時25分に到着です。これで5回目の夜行列車です。
次回は平機関区の画像を予定しています。
では これで。
(No68)東北旅行(釜石線陸中大橋その1)⑯ [東北旅行1(昭和時代)]
今日は釜石線の陸中大橋に訪れた画像で、2回に分けています。今回は、その1として陸中大橋から洞泉方面の画像です。
時は昭和40年8月16日です。
昨日は常磐線亘理~阿武隈川橋間で撮影、そして仙台に戻り東北本線で北上し盛岡に真夜中に到着しました。
当時、盛岡駅の待合室は、夜になるとカニ族と言われた旅行者が大きなリックザックを背負って何処からもなく現れ眠らない盛岡駅をねぐらとして利用していました。貧乏学生にはとても便利で重宝な駅でした。この日の我々もカニ族の仲間と同類ですね。
駅の待合室でリックに横たわり寝ていました私がふと目を覚ましました。時間を見ると真夜中の2時過ぎ、丁度下りの特急「はくつる」が到着する時間帯、友人達に声をかけたが眠いのか起きないので私一人でホ-ムに向かい特急「はくつる」を撮りに行きました。
真夜中2時30分「はくつる」が到着。既に補機DD51が待機しています。DD51のヘッドライトがC61を照らしています。停車時間5分間の出来事です。
空が徐々に明るくなってきました。友人達に「はくつる」の話をすると「起こしてくれたらいいのに」と言われた覚えがあります。
さて、
釜石線の始発5時30分準急「はやちね1号」に乗車し花巻で東北本線と分かれて釜石線に入ります。花巻に馬ズラの細長い顔した花巻電鉄の車輌が止まっていました。
デハ21と馬ヅラのデハ4
遠野物語に出できそうなのんびりした田園地帯ですね。宮守辺りと思います。宮守駅を出ると宮守川を渡るコンクリ-トのア-チ橋が有名ですね。
甲子川の沢に沿って幾つかのトンネルを潜ると東北随一の高さを誇る鬼ヶ沢鉄橋を渡ります。ウトウトしていた私がその鉄橋の音で目を覚まし車窓から眼下に見える陸中大橋の駅が見えて驚きと、一瞬どうなっているのか全然分かりませんでした。半径500R程のオメガル-プのトンネルを出たときに、上空に今走ってきた線路が見えたときは感動しました。
釜石鉄鉱石採掘の町で、積み出し駅として栄えてた時代で、まだまだ活気溢れる大橋の展望です。後方にダムみたいに見えるのは推積場です。その大きさが物語っている様です。
陸中大橋駅舎。今回は洞泉方面を探索した画像です。
線路が山の斜面にへばりつく様に作られています。D51が牽引する貨物列車がゆっくりと登って行きました。
駅から国道500m程歩くと鬼ヶ沢鉄橋がはるか上空に見えます。丁度気動車が上有住方面に登って行きました。
洞泉方面からD51が引く普通客列車が登ってきました
準急盛岡行き「そとやま」。
更に500m歩くと釜石線は国道と甲子川を跨ぎます。ここから線路と国道との間に甲子川を挟むので線路脇の犬走りを歩いて行くことにしました。陸中大橋へ向かうD50貨物列車。
洞泉方面に約2㌔程ここまで歩きました。この先にはトンネルでこれ以上無理と判断。陸中大橋へ向かうバック運転のD51貨物列車を撮ってこの場所から戻ることにしました。
今回は陸中大橋から洞泉側の画像でした。次回は上有住方面の画像の予定です。
尚、陸中大橋で撮影した画像は下記の「なめくじ会鉄道写真館」のホ-ムペ-ジにも乗せていますので、そちらもご覧下さい。
http://home.a00.itscom.net/yosan/jyoki/kamaisi/kamaisi.html
では これで。
(No67)東北旅行(亘理~阿武隈川橋梁)⑮ [東北旅行1(昭和時代)]
さて
今日は東北旅行(昭和時代)シリ-ズの常磐線亘理~阿武隈川橋梁間で撮った画像です。
時は昭和40年8月15日です。
仙台機関区を後にして、仙台駅から常磐線の亘理駅へと行きました。撮影場所は逢隈信号場(現在は駅に昇格していますね)近辺ですが、駅から結構あるので多分バスで行ったと思います。
亘理駅前で昼食用のお弁当を買い込むとお店のおばさんが「胡瓜食べるか」と言ってもの凄い大きな胡瓜を持ってきました。おかげでお昼はお腹一杯になりました。
亘理駅にD51が牽引する貨物列車が到着。旗が半旗で上がっているのが気になりますが‥。
逢隈信号場は1988年(昭和63年)8月2日から駅に昇格するとは当時思ってもいなかったですね。
亘理方面から来たD51が牽引する貨物列車がゆっくりと国道6号線をくぐって行きます。
反対側には逢隈信号場があります。貨物列車同士の列車交換です。
C62が牽引の仙台行きの普通客列車が逢隈信号場を通過しました。
上り列車キハ58の急行が来ました列車名が不明です。
逢隈信号場から北側に下郡トンネルがあります。その先は築堤になっていて阿武隈川橋梁と続きます。
下りC62牽引客列車が築堤を走り阿武隈川を渡ります。
彼方に下郡トンネルが見えます。現在はこの辺りから新線を左側に引き新しいトンネルが旧トンネルの横に作られているようです。
阿武隈川を渡るキハ55。
阿武隈川橋梁を渡るC62牽引の普通客列車。あいにく橋桁の工事をしていました。
昼食に朝方お店で頂いたデカ胡瓜に塩をかけて美味しく頂きました。旅行中は野菜不足がちなので助かりました。
さて、お腹も満足したので、再び逢隈信号場方面に戻り今度は辺り一面の田園地帯で撮りました。
貨車を40両以上繫いだ貨物列車を軽そうに牽引するD51。
上りの優等客列車(列車名不明です)を牽引するC603。
何時頃まで撮影していたのでしょうか帰りの時間です。国道6号線の彼方に亘理行きのバスがきました。田んぼのあぜ道を歩いていた我々は走ってバス停に行き何とか間に合って息を切らせてバスに乗った記憶があります。バスの中から特急「はつかり」が通過して行くのが見えたので撮ったんですがブレブレでした。
この後は、常磐線亘理から仙台に戻り、仙台から東北本線で北上し盛岡にいきます。盛岡には夜中に到着して駅の待合室で一泊します。
次回は盛岡から釜石線の陸中大橋に訪れましたのでその画像の予定です。
では これで。
東北旅行(仙台)⑭ [東北旅行1(昭和時代)]
さて、東北旅行(昭和時代)シリ-ズの続きです。時は昭和40年8月15日になります。
前日の郡山から仙台へどの様に来たか全く分からずフイルムを見てもいきなり仙台機関区になっていました。
仙台機関区(管)はC62,C61,C60,C59,C58,C11の総計37両程です。
C59は90と176の2両いましたが、当時仙台にはこの1台しかいませんでした。それにしても給炭場が大きいですね。
機関車が庫に入る時は殆どが頭から入るのでテンダ-が前向きになってしまう。絵にならずガッカリした記憶があります。
外から正面が撮れないので庫の中に入ってみました。木造作りがすごいですね。それに木の温もりもあって蒸気機関車と良くマッチしていますね。思ったより広く、2台分が格納出来る奥行きでした。
C59176が業務を終えて庫の中に入って来ました。隣はC612です。
調整していたのでしょうか、庫の中でドレインを排出していました。これがまたどえらい音でした。機関車はC603です。
C62とC11が並びました。C11がやけに短く見えます。C62は仙台~平(現在はいわき)間を運用しており、かなりのスピ-ドで走っていました。
蒸気機関車の他にED71,ED75,そして仙山線のED91も有りました。
一通り見学をして、この後は、仙台駅に戻り、常磐線亘理まで行き、逢隈信号場近辺で撮影をしています。
次回は常磐線逢隈信号場近辺の画像を予定しています。
では これで。
尚、なめくじ会鉄道写真館にも載せていますのでそちらもご覧下さい。
http://home.a00.itscom.net/yosan/jyoki/sendai/sendai.html
東北旅行(郡山機関区)⑬ [東北旅行1(昭和時代)]
昨日春一番冷たい風が吹いて外に出してあったイタリヤ調の花瓶が倒れ見事に壊れました。チョッと変わったデザインだったのに惜しい事をしました。今日もまだ少し風が残っていたけどたいしたことは無さそうです。
さて、
昨日の続きで会津若松駅から磐越西線に乗り郡山へ戻りました。
途中、車窓から中山宿を見たり、何回かの列車交換の写真を撮りながら郡山に到着しました。そして郡山機関区へ見学。管理している機関車はD60,C58,9600,8620で22両ほどです。
時は昭和40年8月14日です。
広田駅。(この撮影は会津若松に行くときに撮った写真です。)
翁島駅。D6023が来ます。(これも会津若松に行くときに撮った写真です)
駅周辺の雰囲気が分かるようにあえて汽車が遠い画像を選びました。
沼上信号所と思います。タブレットを受け取っています。(この写真は郡山行きに乗っています)
どの駅でしょうか、D50377貨物列車が来ました。車掌さんが後方確認しています。よく見ると機関助士がタブレットを渡していますね。
会津若松駅を12時00分発に乗車し郡山には14時01分到着し郡山機関区に1時間程見学。
扇形機関庫はコンクリ-トの建物でした。郡山機関区と書かれた看板が見えます。
機関区の施設はかなりのものですね。
庫から出て来て是から営業運転に向かうD6023。
庫の中で休んでいるD6077。
郡山機関区で管理している、たった1台のC5841です。
機関区から郡山駅方面を見ています。D6068とD6023が営業運転のスタンバイ。
機関区の横は本線が走っています。丁度D6023牽引の下り会津若松行き列車来ました。
立派な信号所の建物が見えます。出窓の下の白い看板には「こおりやま」と書いてあります。
その信号所のアップです。
郡山駅。セドリック、ブル-バ-ド、コロナなどのタクシ-が沢山止まっていますね。
機関区の見学も終りました。駅の時計を見ると15時35分位に戻ってきたようです。明日の予定は仙台機関区と常磐線の亘理でC62列車の撮影ですが、この辺りのスケジユ-ルが不明でネガを見ても分かりません。仙台で木賃宿に泊まったか、盛岡まで行って、夜行列車に乗って仙台で朝を迎えたか全然覚えていません。で、省略させて頂きます。
次回は仙台編を予定しています。
では これで。
ご連絡
明日から
「この度、So-net blogでは、サービスリニューアルに伴う、
43時間のシステムメンテナンスを予定しております」
【日時】
2008年2月25日(月) 15:00 ~2月27日(水) 10:00
(43時間)
【影響範囲】
So-net blogすべてのサービス
※記事の閲覧/投稿/管理などすべてがご利用いただけません。
※メンテナンス中は、メンテナンス画面が表示されます。
と言う事でよろしくお願いいたします。
東北旅行(沼尻鉄道・会津若松機関区)⑫ [東北旅行1(昭和時代)]
今日は、東北旅行(昭和時代)シリ-ズの東北旅行(沼尻鉄道・会津若松機関区)⑫の画像です。
時は昭和40年8月14日です。
昨日沼尻温泉で疲れをとり午前は中沼尻鉄道のDC12ミキスト列車や沼尻駅構内を探索して楽しみました。次の目的地会津若松機関区に行く時間となり沼尻温泉を後にして川桁へと向かいました。
ここから会津若松の会津盆地までの途中は15㌔におよぶ長い登り坂が続きSカ-ブの連続ですね。我々が乗った列車の牽引はDF50でした。力強いのかグイグイ登っていきました。
会津若松駅に到着し、牽引てしてきたDF50からC57にバトンタッチそれもNo1でした。
さて、会津若松機関区に行きます。本来名称は、当時は磐越西線管理所と会津線管理所となっていましたが、同じ機関庫なので会津若松機関区と書かせて頂きました。尚、当時管理車輌数(蒸気)は総計41両程あり、、磐越西線(管)はD50,D51,C12,C11,8620の28両、会津線(管)は全てC11の13両でした。その中の大井川鉄道に渡ったC11312もありました。最近まで走っていましたが平成19年9月8日老朽化のため運転を終え、今後は静態保存される予定のようです。
庫の全貌
D50と8620が肩を並べて休んでいます。ボイラ-の大きさが一回り以上ちがいおデブちゃんにみえますね。
D5135のナメクジ型が1両配属されていました。
DF50が休みに来ました。バックの庫の窓枠がすごいですね。
ここの機関区は殆どが前向きに入庫しているので写真を撮るのに最適でした。
タ-ンテイブルにC11が余裕に乗っています。このC11110は会津線(管)です。
交検線で交番検査をしているC11236とC11110。どちらも会津線(管)。
駅に戻る時、何と3重連で貨物列車が到着していましたが、既に切り離していて発車しました。
D51358+D51+D50です。
丁度貨物の入れ替え作業中と重なって、追っかけが撮れません。機関区見学の帰り道、夏の暑い日でした。
会津若松駅。観光地もあって結構大きな駅舎ですね。今も基本的にはあまり変わっていないようですね。
会津若松駅から再び郡山に戻り郡山機関区に訪問しています。次回はその郡山機関区と磐越西線の車窓を予定しています。
では これで。
東北旅行(中山宿)⑪ [東北旅行1(昭和時代)]
今日は、久しぶりに東北旅行(昭和時代)シリ-ズの続きです。時は昭和40年8月13日になります
青森から夜行列車急行「津軽」を18時05分発に乗車。機関車はDF50が引いていました。郡山には5時37分に到着です。これで4回目の夜行列車で、疲れがピ-クに達していたかも知れません。途中の碇ヶ関、津軽湯ノ沢、陣場など全く覚えがありません。目が覚めたら既に空が明るくなっていました。
磐越西線D60が引く郡山7時02分発普通列車新津行き乗車。中山宿には7時40分頃に到着します。
郡山駅 D60が6両の客車をつないで発車を待っています。
磐梯熱海で上り郡山行き普通列車と列車交換。重連できました。
中山宿駅に滑り込むD50256 タブレット受器に投げ込む機関助士。
D6023が引く列車が引き込み線に入り、そしてボイラ-の圧力を上げ一気に加速してきます。
信号所を左に見ながら力強く会津若松方面に登って行きました。
郡山から来た貨物列車。列車交換のため一時の休憩を取る機関士と助士。給水栓でタオルを濡らして顔を拭いていました。
反対側の山で開けている場所が見えたのでそこから中山宿の展望を撮る事にしました。
地図無し、おおよその感で山道を探し、こんな丸太橋も渡ったりしながら30分以上登って山の中腹にその開けた場所に出ました。
かなり登ったんですね。中山宿が眼下に見ることが出来ましたが少し登りすぎかな。遠くて良く分からない写真になってしまいました。彼方の山々は吾妻山麓辺りでしょうか、天候も悪かったのでかすんでしまっています。中山宿駅周辺はこんな感じでした。
磐越西線と並んでいる道路は国道49号線(越後街道)で、まだまだ未舗装が多かった様です。
中山宿駅前には、お店などが無く郡山で昼食用のお弁当や飲物等を買い込んだ記憶があります。
ここで撮影した中山宿の画像は下記の「なめくじ会鉄道写真館」のホ-ムペ-ジにも載せていますので、そちらもご覧下さい。
http://home.a00.itscom.net/yosan/jyoki/banetusaisen/banetusaisen.html
さて、ここでの撮影も一通り終り、今夜は予定していた旅館で中休み。久しぶりに畳で寝る事が出来ます。
特に旅館も予約して居ないので中山宿の駅員さんらに宿泊料金の安い所と駅に近いお勧め宿を聞きました。「どうせ泊まるのならば温泉がいいよ」と言うご返事で沼尻温泉のある旅館を紹介して頂き、その旅館の予約までして頂きました。
たしか一泊2食付で1100円だったと思います。当時の相場は1500円位なので400円も安いので一つ返事でお願いしました。当時は駅の立ちそばが40円、幕の内弁当が150円程度なのですから貧乏学生には400円でも結構助かります。
お礼を言って川桁駅へ向かいました。そして、川桁駅からあの可愛い沼尻鉄道に乗って沼尻温泉にいきました。
当然ゆっくりと温泉に浸かって疲れを取り、久しぶりに少しばかりのお酒と、ちゃんとした夕食を頂き布団の中でぐっすりとお休みができました。
この後は、最初の東北旅行(昭和時代)の東北旅行(沼尻鉄道)①と②に続きます。
次回はもう少し沼尻鉄道の画像と会津若松機関区の画像を予定しています。
では これで。
東北旅行(青森駅ホ-ムにて)⑩ [東北旅行1(昭和時代)]
昨日はとある「‥‥つどいの会」の駐車場のお手伝いをしました。雪や雨が降ったらいやだなぁ-と思っていましたが寒くなく絶好の日でした。鉄道写真を撮るときには雪が降ったらいいのになぁ-と思っているくせに‥‥‥ワガママですね。今日は小雨ついていたなぁって喜ぶ私でした。
さて、東北旅行シリ-ズ青森機関区から青森駅まで戻ってきました。明日は、磐越西線に行くため郡山まで夜行列車18時05分発の急行「津軽」に乗ります。待ち時間の間にホ-ムから写した画像です。
昭和40年8月12日と平成16年12月23日の画像です。ずいぶん変わっていてビックリしました。
今はヤ-ドも無くなり、寂しくなりました。ホ-ムの真上に青森ベイブリッチが跨いでいますね。
16時45分、5,383㌧の八甲田丸がゆっくりと姿を現し到着しました。
八甲田丸が接岸されました。ポイント工事中なのに貨車がないのかなぁ。
当時の稼動橋の一つがそのままの姿で保存されて、昭和63年3月13日青森を最後に出航した八甲田丸が「青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸」という博物館になっていますね。
9600が航送する貨物を押込んでいます。
長い跨線橋の右側先端はもう青函連絡船の出入口です。
青森駅構内の裏にもう一つ稼動橋がありました。
職員用の通路があり許可を得ると線路内から簡単に撮影が出来ました。
その職員用の通路から撮ったDD51牽引17時25分発の急行「いわて」とC617牽引普通列車。
津軽線のりばです。気動車に客車を連結して、満員の乗客を乗せて発車して行きました。
奥羽本線のりばです。時計は17時35分を示しています。
彼方からDF50の姿が見えます。急行「津軽」の入線です。
東北旅行、4度目の夜行列車、18時05分発の急行「津軽」に乗って郡山で朝を迎えます。郡山には5時37分到着です。そして磐越西線中山宿に行きます。
次はスイッチバックの駅、中山宿スナップを予定しています。
では これで。
東北旅行(青森機関区)⑨ [東北旅行1(昭和時代)]
何時頃から雪になったのでしょうか20時頃窓のブライントを上げると外は雪で既に積もっていました。今年は雪の降る日が多いですね。明日は今年3度目の箱根登山鉄道の大平台に行く予定にしています。どの位の雪があるのか、わかりませんど。
さて今回は東北旅行(昭和時代)の続きで、時は昭和40年8月12日です。昨日一ノ関から夜行列車で朝の8時21分に青森に到着しました。青森機関区は青森駅からかなり離れているので重たい荷物は駅の一時預所にあずけカメラと三脚だけ持って行きました。今の東青森方向に約1.5㌔辺りに機関区があり、2、30分くらい歩いたと思います。青森機関区が管理していた蒸気機関車は当時58両程で種類はD51、C61、C60、9600、そしてC11などでした。
堂々たる青森機関区の看板。とりあえずここで見学許可をもらわなければいけませんね。
詰所の横には「はくつる」のヘッドマ-クがさりげなくチョコンと引っ掛けてありました。しかしこのあと写しやすい場所に置いてくれました。
いよいよ扇形機関庫に入ります。庫の屋根には青森機関区の大きな看板がありました。
扇形機関庫の全景。画像が小さく見ずらくてスイマセン。3枚組み合わせいます。
9600がタ-ンテイブルに乗ろうとしています。
作業員がタ-ンテイブルをなれた手つきでチョイチョイと動かしています。D51-436
C60-2の停止位置を見守る作業員
誘導の旗一つでC61-17が上手くにタ-ンテイブルに収まっていきます。
C61-18が先頭を庫の方向に回転しています。思ったより結構な速さで回っていたような気がします。
次から次へとタ-ンテイブルに仕事や点検を終えた蒸気機関車が来ます。作業は大忙しです。
今は、真夏です。煙室トビラの中は何度位だってのでしょうか。釜の中の点検は大変だったでしょうね。
最後に給炭台を見て青森機関区の見学を終わりにしました。詰め所の職員にお礼を言って青森駅まで戻りました。機関区で歩き回った後でしたので駅までが遠く感じて辛かったような気がします。
青森駅舎がやっと見えてきました。
何時ごろ機関区から戻ってきたのかは、分かりませんが、明日は郡山まで4度目の夜行列車急行「津軽」をこの青森駅で待った事は確かです。
では これで
東北旅行(野辺地~車窓~青森まで)⑧ [東北旅行1(昭和時代)]
何だかんだで5日に東北旅行(昭和時代)シリ-ズの続きが出来なくて1日空いてしまいすいません。
今日は一日ドン曇り。ずいぶん冷え込むなぁ-と思っていたら、ちらりと雪が舞い降りてきました。一度溶けていた大山の山々はもう既に雪化粧となっていました。
飯山、半原方面の山々とうっすらと見えるのは宮ヶ瀬辺りでしょうか大分積もっているようですね。手前は相模原麻溝公園のグリ-ンタワ-(エレベ-タで行ける無料の展望台です)と黒っぽい屋根は相模原総合体育館です。
さて、4日の続きで、時は昭和40年8月12日です。
一関から夜行列車で野辺地まで来ました。終着駅青森まであと8駅で1時間ほどです。
野辺地を7時01分出発して狩場沢、そして清水川駅に到着。
出発は7時19分。上りC6014と後方補機2両の三台運転が到着してきました。
清水沢駅 後方重連。2台ともC61でしょうか。はっきり分かりません。
車窓には通称ハエタタキという電柱が印象的でした。幹線の沿線は特に大きなハエタタキでしたね。
西平内駅は7時34分発です。C6022が来ました。おや、珍しい煙室前面の先端が丸くなっていない釜がきました。
この駅には乗客がいないようなので通過かも知れません。
浅虫には7時44分発です。当時は、青森湾に望んだ温泉地で東北の熱海とも呼ばれていたそうです。
もう、野内まで来ました。出発は7時53分。残りの駅は浪打と浦町そして終着駅の青森です。
上りDD5118が引く普通列車と列車交換。 (これは現像ムラです↑怪しい影ではありません)
野内駅から青森間は線路変更のため、浪打駅と浦町駅が無くなり新しく東青森駅が開設されました。当時はまだ隣の駅が浪打となっていました。今は野内、矢田前、小柳、東青森となっていますね。
やっと、終着駅青森8時13分に到着しました。一ノ関が23時01分発車して9時間と12分です。距離にして294.1㌔。まぁ、貧乏学生には便利な夜行列車が数多く走っていたのでうまく利用していました。
で、こんな感じの車窓風景を見ながら3度目の夜行列車でした。
C611とも分かれて、目的地の青森機関区へ訪問。これがまた結構遠いんですよ本当に。
続きは青森機関区の画像を。整理が出来たらアップする予定にしています。
では これで
東北旅行(一ノ関~車窓~野辺地まで)⑦ [東北旅行1(昭和時代)]
昨日の雪が溶けて凍っていて朝刊を取りに行くと足元がツルツルで滑りそうで恐々。
でも、天気は上々だなぁ-。チョッと用があって車で一走り。大山の山々は真っ白、車内はポカポカ。用事が無ければ小田急線旧塗装LSEでも撮りに行きたかったなぁ。
さて、今日は東北旅行の続きで昭和40年8月11日一ノ関から23時01分発の下り普通青森行きに乗車して3度目の夜行列車で北上し青森へ。青森到着は12日の8時13分です。
画像は夜明の車窓から金田一辺りから青森間を撮ったものです。尚、駅名が違っていたらごめんなさい。
朝の何時ごろでしょうか。目が覚めて車窓からは電化の工事と複線工事が延々と続いていました。
使用しているのでしょうかガランとしている木造の信号所。しかも場所が分かりません。いずれにせよ金田一から三沢の間だと思いますが。
三沢駅は5時54分発です。上り特急「はつかり」と列車交換しました。我々が乗っている列車の牽引はC61のファ-ストナンバ-です。
今でも十和田観光電鉄のりばがありますね。
小川原駅かなぁ。6時06分発です。上りと列車交換ですが被写体が遠いいなぁ-。この後もうワンカット撮れば良いのに撮っていません。駅本屋がないということは左側でしょう。
次の駅は上北町だけどウ-ム。6時12分発です。
DD51の重連と列車交換、優等列車と思います。後方補機(C6033)も付いていました。
DD51が出始めて間もない時期、まだブレ-キホ-スだけで、すっきりしたお面ですごく綺麗ですね。
上2カットは三沢から千曳の間で撮ったのは確かなんですけど、乙供という駅も有りますね。
千曳は6時39発。ここには南部縦貫鉄道が来ていましたね。反対側だったので気が付きませんでした。ここは千曳駅に間違いないですね。
そして次の駅は野辺地駅。7時01発となります。
時刻表が昭和39年10月を見ながら駅名を確認しているせいか、下り線または、上り線の列車が時刻表に無かったり、うまくかみ合わない駅も有ります。昭和40年8月は臨時列車が多数出ていたのか、時刻改正していたのかも知れません。
今回は夜が明け始めた金田一辺りから野辺地までを、青森行き普通列車の車窓からの画像でした。
次回はこの続きです。
では これで
東北旅行(東北本線大沢田トンネル付近)⑥ [東北旅行1(昭和時代)]
今日は東北旅行(青森から一ノ関へ)からの続きで(昭和40年8月11日)一ノ関~有壁間にある大沢田トンネル付近(一ノ関側)で撮った画像を見てください。
一ノ関機関区を後にしてD62の走行写真など撮るため、ミヤコバスに乗って約5㌔程で鬼死骸という怖いバス停名で降りました。と思っていますが今一?です。
大沢田トンネル付近は下り線と上り線が離れており、トンネルも独立しています。真夏のムンムンした蒸し暑い日の撮影だった様な記憶があります。
かなり古い時代には、ここから東側へ数キロの所に旧線があって勾配が16%以上の峠越えをしていました。トンネルをサミットとする峠は、かなりの難所だったそうです。有壁峠、有壁隧道と言っていました。
左側下り線、右側上り線です。丁度列車同しのすれ違いですね。架線が既に引かれていましたがまだ電車や電機等の運用はしていませんでした。
上りD624+C58(多分)の重連で50両近い貨物を引いてきました。
後方補機が付く場合も有ったんですね。補機はC58303でした。
上り特急「つばさ」通過して行きました。この前に特急「はつかり」が来るのですがフイルムに写っていないので、きっと撮り損ねたのでしょう。
下りC619牽引普通列車青森行きと思います。
上りC6128牽引の列車ですが列車名は不詳です。旧国道4号線をくぐり、大沢田トンネルに入ります。その上から撮影しています。
下りD624牽引貨物列車
DD51が牽引する上り優等列車上野行きですが、急行「みちのく」?急行「ひめかみ」?それとも何だろうなぁ。
下り急行「あけぼの」は仙台始発(13時50分)、横黒線(現在は北上線)、奥羽本線経由で青森行き(21時53分着)の運転でした。
客車、貨物を牽引は殆ど蒸気機関車でD62、D51、C61、C60、C58、それとDD51など、多彩な顔ぶれだったんですね。
最後の撮影はフイルムを見ると、上りC61が引く荷物列車が写っています。何時頃でしょうね。
この後、一ノ関駅までは5㌔程あるので多分バスで戻り次の目的地、3度目の夜行列車でまたまた北上し青森行き23時01分の普通列車を待ちます。駅舎の時計はまだ18時15分です。(前回の東北旅行(一ノ関)に駅舎の画像を載せています)。気長に待っていた様ですね。
ここで撮影した一ノ関機関区とD62の画像は下記の「なめくじ会鉄道写真館」のホ-ムペ-ジにも載せていますので、そちらにもご覧下さい。
http://home.a00.itscom.net/yosan/jyoki/sendai/sendai.html
では これで
東北旅行(青森から一ノ関へ)⑤ [東北旅行1(昭和時代)]
今日はカミサンから「ロ-ルパンを作ってよ」とのリクエスト。シナモンも入れたのも食べたいなど注文が多い。それじゃと午前中からパン生地作りに奮闘すること20分。半日かけて出来上がった不揃いのロ-ルパンのお味は美味しいとの事で好評。初めてにしちゃ上出来かなぁ-。
さて、
昨日の続きで青森から夜行列車で南下。一ノ関にへ行った時の画像で、時は昭和40年(1965)8月11日です。
実は、一ノ関機関区は昭和39年12月20日に一度訪問しており、今度で二度目になります。その一度目の画像(昭和39年)も載せています。
8月11日の早朝5時28分一ノ関に到着。6分停車なので機関車を見に行きました。我々が乗ってきた急行「八甲田」はC61が牽引していたのですね。隣に止まっている列車は下り青森行き5時35分発の急行「いわて」だと思います。
機関区の全景(昭和39年)。左側のタ-ンティブルには庫が無く、右側彼方に庫が見えますね。機関区には駅から10分程度でへ行けた気がします。現在は東北新幹線の一ノ関駅となっていますね。
庫に近づいてみました。左からC58181、C58162、18698、そしてD6215が各々点検整備をしていました(昭和39年)。
一ノ関から出ている大船渡線にはC58とD50が入っており、D50はバック運転の見通しを良くするためと思いますがテンダ-を改造されていますね。(昭和39年)。
整備も終わりD62ファ-ストナンバ-が庫からゆっくりと出てきました。
流石にD62のボディ-はでかいですね。D51と肩を並べて休んでいます。
煙室トビラを開いて石炭の燃えかすをかき出す作業も大変だったでしょうね。
D62はご存知と思いますがD52の改造で20両作成されましたが、昭和44年(1966)10月に全車解体されて残念ながら保存機は無いのです。
一度訪れていたためか2度目は機関区の写真が妙に少ないのです。旅は始まってまだ2日目です。きっとフイルムの本数を考えて撮っていたのでしょうか。今だったらデジタルでバシバシと気兼ねなく撮れるんですがね。当時はフイルムが高価の為にハ-フカメラも持って行きスナップなどはハ-フで撮っていました。
機関区に行く途中で、偶然にもC59牽引の上り客車列車が見られました。何と、下り線の列車とかぶりそうになったのですね。
午前中早めに切り上げこの後は、バスで5㌔ほどの場所で撮影する、大沢田トンネル付近に行きました。バス停が鬼死骸という怖いバス停名の所で降りた様な気がします。いずれこの場所で撮影した画像をお見せ出来ると思います。
懐かしい一ノ関駅。大沢田トンネル付近での撮影から戻ってきたのでしょう。時計が18時15分を指しています。 駅前のトリスバ-もまた懐かしい。
明日の目的地は青森機関区です。待合室で23時01分普通列車青森行きに乗って青森まで、またまた北上します。しかし、どうやって時間を潰していたんでしょうね。全く覚えていませんで~す。
では 今回はこれで
東北旅行(好摩から青森へ)④ [東北旅行1(昭和時代)]
昭和40年8月10日から始まった東北旅行の花輪線の続きです。
花輪線を後にして、次の目的地は一ノ関。しかし明日です。その為に東北本線の好摩で乗り換えて一路青森に北上、そして青森から夜行列車で、今度は南下して一ノ関に行く予定です。
今回はその青森までの画像を見てください。
花輪線荒谷新町を16時34分に乗り、好摩には17時30分に着きました。
好摩駅 架線が無いのでずいぶんすっきりしていますね。確かまだ単線だったと思います。下り線の貨物列車が列車交換待ちしています。彼方上り線から何か来ましたね。
好摩に到着したのがD51のファ-ストナンバ-とDD51の重連の荷物列車でした。我々の乗る青森行きは17時44分発準急「しもきた」。気動車で青森には21時12分に着きます。
どこの駅でしょうか。タ-ンティブルが見えます。沼宮内かなぁ-。この後のフイルムは車内で寝ている友人を写しているだけでした。疲れていて私も多分眠っていたかも。
22時40分発特急「はくつる」。補機DD51のヘッドライトが、「はくつる」のヘッドマ-クを付けたC61を明るく照らしています。
この後、フイルムを見ると、23時10分発急行「八甲田」の夜行列車で一ノ関に向かっています。
一ノ関到着は8月11日の早朝5時28分です。2回目の夜行列車ですね。
今日はこれで 明日続きを。
では
東北旅行(花輪線龍ヶ森)③ [東北旅行1(昭和時代)]
今回は昭和40年8月10日~19日にかけて、初めて東北旅行に行った時の1日目、花輪線龍ヶ森に訪れた時のお話です。現在は安比高原ですね。
上野から19時10分発常磐線経由の急行「十和田」の夜行列車にゆられ盛岡に向いました。列車はかなり混んいて客席に入れなく友人3人と洗面所で一晩明かし、早朝4時25分に盛岡に到着しました。
上野駅
盛岡駅の待合室で待つこと1時間程で、花輪線の始発5時30分大館行きの気動車に乗車。確かこの時は非常に眠くて車内でウトウトしていたかな。北森駅で一度下車し、盛岡行き蒸気機関車8620機の客車列車や貨物列車など撮影してから龍ヶ森駅へ向かいました。着いたのが多分8時過ぎ頃と思います。
33.3%の急勾配を登ってもうすぐ駅に着きます。初めて龍ケ森を見たときは何とすばらしい所なの、と感激しました。周辺は民家、お店などありませんので食料は予め調達しておかないと大変です。
龍ヶ森はハイキングや山菜狩りが出来るのでハイカ-や行楽客が結構乗り降りしていました。夏期は貨物量が少ないのか補機が殆ど付かなくてガッカリした様な記憶があります。右のチョコッと見えるダブルルーフのオハ31客車はヒュッテになっていて、冬場、スキ-ヤ-の宿として営業していました。私も冬に訪れたときここヒュッテにご厄介なりました。確か、とん汁が美味しかった覚えがあります。
一休みの間、連結器に油を注す機関手。補機が付く区間なので連結機には特に念入りに点検ということでしょうか。
発車時間です。一時の休憩もおしまい。出発進行!! これから岩手松尾まで急な下り坂。スピ-ド押さえながらの運転です。
赤坂田側より線路から眺めた風景です。サイロを持つ農家が目立ちますね。今は東北自動車道が通っていると思います。
木陰で汽車を待っている時にいつの間にか眠ってしまい、蒸気機関車のブラフト音で目がさめた覚えがあります。 蒸気機関車8620機が引く客車列車は1日上下線6本あり、その内の午前中に盛岡行きが1本と夕方に大館行きが1本この龍ヶ森の峠越えをしていました。夕方の大館行きは6両編成の客車でした。岩手松尾駅(現在は松尾八幡平駅)で後方に補機が2両ついて龍ヶ森へと登って行きました。
盛岡行き準急「よねしろ1号」が赤坂田からエンジンを噴かして登ってきました。まだ未舗装の津軽街道を多分トヨタの「コロナ」かな、土ぼこりを上げて「よねしろ1号」を追い越して行きました。
後に補機が付いているにもかかわらず歩く速度みたいな感じで登って来た貨物列車。10分程前からボッボッボッとブラフト音が聞こえていました。まぁ-、しかし下手な写真だなぁ-後ろの補機が見えないなぁ。
後追いです。あまりにも遅いので煙が流れません。煙も一緒にくっいて龍ヶ森に登って行きました。
この先には龍ヶ森トンネルがあります。龍ヶ森の出口付近が確かサミットと思います。
短い貨物列車をトンネルを入るまで見とどける駅長さんでした。
龍ヶ森には13時頃で切り上げて荒谷新町駅にある小さな庫を見に行っていました。花輪線を統括する花輪線管理所と言って8620機を当時7両程管理していたと思います。
今回、殆ど赤坂田方面と龍ヶ森駅付近でしか撮っていなかったようです。多分、滞在時間が無い事と、行ったり来たりする事が辛かったのかなぁ。
この後、荒谷新町を14時07分盛岡行きに乗って好摩で東北本線に乗り換えて北上、青森まで行き、青森から夜行列車に乗って一路南下して一ノ関に行きました。
かなりハ-ドなスケジュ-ルだったんですね。何れ一ノ関のお話を。
では これで
(No23)東北旅行(沼尻鉄道)② [東北旅行1(昭和時代)]
日本列島寒波が襲っていますね。北海道の-33度って凄いです。体験したことがありませんね。私もC62「ニセコ」を追って冬の北海道に行ったことがありますがこんな気温ではなかったと思います。
さて、昨日の続き2日目です。
沼尻駅前にあった温泉案内図。下のほうに書かれている鉄道線が終点の沼尻駅です。旅館名の下の数字は電話番号です。2桁とはすくないですね。
沼尻温泉の旅館に荷物を置いといてもらい午前中は沼尻駅構内の探索と走行写真を撮ることにしました。
沼尻駅舎 駅構内のヤ-ドは地元の子供たちの絶好の遊び場となっているようでした。
駅構内の全景 機関車はデルタ線で向きを変えていました。手前側にも側線が数本あり客車等がとまっていました。そろそろ豆列車が到着する時間です。同行している仲間達は各々撮影場所を探しに散っていきました。
1㌔程度歩いたと思います。林を抜けると磐梯山が見える場所にきました。しばらく待っているとコトコトと沼尻行きがきました。
折り返し川桁行きがすぐに来るので少しばかり場所を変えて撮影しました。
折り返しの川桁行きがきました。精製された硫黄を積んだセタが数両その後ろにボハフに乗っている若者達がデッキで楽しんでいます。麦わら帽子とそのかぶり方が時代を感じますね。これで沼尻とお別れです。
沼尻を後にして我々の乗った豆列車(ボハフとボハ)が会津樋ノ口駅に到着しました。ここで列車交換を致します。真夏なのでエンジンル-ムの扉が開いていますね。
沼尻行きの列車が着きました。タブレットが棒みたいなものを渡していますね。聞いた話ですが川桁駅と沼尻駅を同時発車して、ここ会津樋ノ口駅で交換し、同時刻に終点に到着という運用だったそうです。
川桁駅に戻ってきました。すでに機関車は切りはずされいました。左家の看板にはパチンコって書いてありますのでパチンコ屋さんかな。
小さなタ-ンテブルに乗せ方向転換し、点検作業を行なっていました。そばにはガソ101も止まっていました。
ガソ101 中々出番が少ないようでした これにも乗ってみたかったですね
沼尻で記念撮影していました。左が私です。
こんな楽しい沼尻鉄道の旅が終わりました。この後、磐越西線川桁駅から会津若松機関区に行っています。
2日間ご覧頂きありがとうございました。
では
(No22)東北旅行(沼尻鉄道)① [東北旅行1(昭和時代)]
今日の朝、雪がチラっと降りました。オッ初雪かと思っていたら、急速に天候が良くなり快晴になってしまいました。雪の風景が見たくなったなぁ。昨日の歩きで股関節が痛い一日を過ごしました。
さて、今回は沼尻鉄道に行ったときの事です。
昭和40年8月の夏休みで10日間かけて東北の鉄道写真を撮りに行きました。その撮影旅行中の泊まりは殆ど夜行列車を利用しました。10日間も夜行列車と駅泊りだと辛いという事で4、5日目辺りで旅館に泊まるという計画でした。その旅館へ行くときに乗ったのが沼尻鉄道でした。当時日本硫黄観光鉄道と呼んでいたようですね。川尻で沼尻鉄道の車輌を見たときは興味しんしん!、感動したのを今でも薄っすらと覚えています。
当時国鉄の川桁駅から沼尻鉄道の川尻駅で乗り換えて沼尻駅まで乗り、沼尻温泉の旅館で一泊しました。夕方川尻駅を出発してので、沼尻駅に着いたときはもう真っ暗でした。その道中で、面白いことがありました。機関車(DC12)が牽引する客車2両の豆列車です。カタンコトンカタンコトンと微妙な振動と揺れを感じながら乗っていました。辺りかだんだんと暗くなりそろそろ明かりが欲しい時間と思っていたらいきなり機関車のヘッドライトが点灯し客室を照らし始めました。何だ明かりのスイッチを間違えたのかと思ったのですが何事もなかったように、このまま終点の沼尻に到着。客車の室内灯が点灯していなかったかどうかは覚えていませんが、まぁ、そんな事もあってのんびりしたおおらかな小さな鉄道でした。
この日は4日ぶりに温泉の風呂に入り疲れを取り、久しぶりに布団で寝ました。翌日は半日、沼尻駅構内の探索です。
旧国鉄の川桁駅と向い側には沼尻鉄道の川桁駅 大きな看板ですね。
沼尻温泉に行ったときに乗った豆列車です。DC121+ボハ7+シボフ3+セタ+セタ‥‥と思います。
翌日の切符ですが、パンチが発行日8月14日、発が沼尻、着が川桁、料金70円ですね。乗車記念として車内で撮ったのでしょう、家には有りませんでした。頂いておけばよかったな-と後悔。
川桁駅構内を覗くとゾクゾクするような車輌が沢山ありました。ボサハ、サハ8、ワフ3、セタ、ラッセル車のセタ36、セタ、そしてガソ101などが見えます。オォ-ォ感激でした。そろそろ沼尻行きがでます。明日ゆっくり見学することにしました。
1日目はこれでおしまいです。明日2日目の続きを書きます。
では